神の詩 第二章第二十八節
「万物の起源は目に見えない、中間の状態は目に見える。最後は再び見えなくなる。ここに何の嘆きがあろうか。(二十八)」
これは、
同じことを
別の表現方法を用いて
わかりやすく語っています。
同じことを
別の表現方法を用いて
わかりやすく語っています。
物質界の視点から見ると、
万物がエネルギー体の状態の時には
肉眼の眼で見ることはできません。
物質界に顕現して
はじめて見ることができます。
そして
また
エネルギーだけになれば見えなくなります。
人は生まれる前は見えず、
肉体を持っている時は見えるけれど、
死を迎えたら
再びエネルギー世界へと帰るために
目には見えなくなります。
それで魂まで無くなるわけではありません。
だから、
嘆く必要がないと説きます。
この節の話と同じ記述が聖書の中にも見られます。
「私たちは目に見えるものではなく、見えないものに目を向けます。それは見えないものはいつかなくなりますが、見えないものは永遠に残るからです。」
コリント人への手紙第二4:18
聖書をはじめとする多くの聖典の中には、
バガヴァッド・ギーターと同じ記述が結構多くあります。
バガヴァッド・ギーターと同じ記述が結構多くあります。
ギーターを読み込んでいる人は、
この聖典「バガヴァッド・ギーター」に書かれていない真理は無い
と断言します。
エドガー・ケイシーも
真理が書かれた地上で最高峰の書と述べた理由がここにあります。
神によって創造されたこの宇宙の中で、
高次元の存在たちによって、
さまざまな生物たちが創造され、
この地上へと下りていきました。
高次元の存在たちによって、
さまざまな生物たちが創造され、
この地上へと下りていきました。
地球上の生物の驚くべき多様性のある自然界の中に、
完璧に新たな生物が組み込まれていく様子は、
人智を遥かに超えた創造性の中で行われます。
完璧に新たな生物が組み込まれていく様子は、
人智を遥かに超えた創造性の中で行われます。
この創造性の様子の一端は、
ごく一部の人は垣間見ることが出来ます。
よく
「鶏と卵はどちらが先なのでしょうか?」
と聞かれます。
「鶏と卵はどちらが先なのでしょうか?」
と聞かれます。
私があるヨギと共に、
見せたもらったことで言うと、
答えは
見せたもらったことで言うと、
答えは
同時。
すべてのものは
まず
明確な意思の元で計画され、
想念フォームを創り、
それを
物質界へと下ろしていきます。
車を例に考えてみましょう。
車を作るには、
まずコンセプトを考え、
そこからデザイン、性能を決めていき、
安全性や走行性能などに関する
あらゆることも考慮しながら
設計に入ります。
車を作るには、
まずコンセプトを考え、
そこからデザイン、性能を決めていき、
安全性や走行性能などに関する
あらゆることも考慮しながら
設計に入ります。
そして
設計が完成形になってから、
製造段階に入ります。
設計が完成形になってから、
製造段階に入ります。
このような工程を経て完成した車が、
ショールームに並び、
初めて私たちの目に触れることが出来るのです。
そして、
初めて道路を走行できる。
初めて道路を走行できる。
鶏と卵も同じです。
物質界を超えたところで、
想念フォームとして完全な設計されてから、
初めて物質として地上に投影されます。
想念フォームとして完全な設計されてから、
初めて物質として地上に投影されます。
私たちの本質の土台は、
肉眼では見えない領域にあるのです。
肉眼では見えない領域にあるのです。
次は
「真我を驚くべきものとして見る者がいる。驚くべきものとして語る者もいる。不思議なものとして聞く者もいる。それを聞いても全く理解しない者もいる。(二十九)」
よく内観しておいてください。
今日もありがとうございます。
ブログランキング参加しています。
応援クリックお願いします。
人気ブログランキング
Source: ひかたま(光の魂たち)
コメント