博多の承天寺(じょうてんじ)には、建立物のみならず境内に歴史を垣間見ることもできます。
その一つが、“蒙古碇石(もうこ いかりいし)”です。
全長2メートルくらいの碇で、両端がややすぼまった形状です。おそらくは当時、綱などを通した穴も綺麗に空いています。
かつて13世紀に、蒙古が九州北部へ襲来した際、蒙古軍の船の碇として使われていたものと言われているそうです。
こんな貴重な史料が本堂前に何気なく置いてあるので、一瞬、石造りのベンチかとも思えます。地元のガイドの方が教えてくださったのでかろうじて座らずに済みました。
本堂は、瓦屋根の美しい佇(たたず)まいです。堂内は外から拝見する形式で、ほの暗いなかに釈迦三尊像(中央=釈迦如来・左脇侍=文殊菩薩・右脇侍=普賢菩薩)を拝することができます。
本日は、こちらの本堂にて祈った際に、釈迦三尊よりいただいた御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
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「日々の積み重ねは肝心(=大切)とは申せ、実のところ、日常は何気ない“繰り返し”でもあります。
この“繰り返し”は、いつしか緩慢(かんまん)を呼び起こし、まるで取るに足りぬ(味気ない)ものとも思われるやもしれません。
いつの時代も、人間の営みは、内実その意義すら見いだすことが難き(=難しい)ことにもなり得ます。
しかしながら、われら(仏)より見るに、この世(人間界)というものは、誠に面白いのです。
一瞬(いっとき)たりとも留まるところを知らず、そしてつぶさに世を見れば、変化や新しき出現に富んでいるのですから。
では一体、それはなぜか。
なぜなら、人間には“感性”があります。
そして、これを下支えするための五感も、また肉の身(=肉体)もある。
無論、人間である限りは生老病死は免(まぬが)れず、ともすれば、苦しみや痛みなどの負(マイナス)の領域に陥(おちい)ります。
それでも、己に備わるあらゆる要素によって人間はこの世を感じ取り、さらには“生み出す”こともできるのです。
“生み出す”とは、言葉を換えれば、この世にそなたなりの“彩りを添える”ことです。
先にもお伝えしたとおり、人間の営みとは、生命という素質を基礎とし、維持することを前提とするならば、繰り返しの要素はけして欠くことはできません。
それでも人生とは同じく(=同じように)歩む者もいなければ、歩める者もいないのです。
ですから、一人ひとりの目前に広がる光景とは、今、各々が日常というさなかに初めて彩ることになる。ましてや、これ(今)に続く未来などは尚更(なおさら)です。
この世とは、“色無き世界”ーーー
ゆえに、地上に降り立つそなたこそが、この世を自らの思い描く色にて“染め上げ”、様々な出逢い、そして出来事を経て、縁(えにし)を“紡ぎ”ゆくのです。
この紡ぎ(紬)から幾重にも織りなされたこの世は、色とりどりの変化に溢(あふ)れ、何とも美しき風景となりましょう。」
以上。
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Source: 神々からのメッセージ
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