曹洞宗大本山總持寺➀大祖堂【神仏の加護によって生きる“奇跡”】

その他

「人間は面白いもので、本当に必要な物事こそ“必要でない”と感じ、あっさりと行動しなくなります。

逆に、必要でない時にもかかわらず、なぜか “必要”と感じ、無暗に(余計に)動くのです。

この、まるで対(つい※この場合には、反対の意。)の行動は、人間ならではの防衛(=防御反応)でもあり、元より備わる性(さが)でもあるでしょう。

そしてまた、これらの(極端な)行動に大きく影響するのが、各々がもつ、“心(=感情・気持ち)”です。

これほどまでに対極の動きをせる、その原動力たる心とは、なんと移ろいやすく、あたかも芯(=中核)を持たぬ“浮き草”のようです。

いとも簡単に人は心乱れ、ときに気も緩み、正しき目(=判断)を持ち得ぬ、その特質を、まずは真に解する(=しっかりと理解する)ことが何よりも肝要です。

“自分を知る”とは、自らに備わる良き面、尊き姿を(自分に)見い出すことでもあるでしょう。

しかしながら、単にそれに留まらず、こうした、本来であれば目を背けたくなるような、人間というものの性(さが)について、真っ向より知り、受け入れることもまた、(人間という)生身の存在が生きていく上で、けして欠かせぬのではないでしょうか。

人間のもつ脆(もろ)さ、不定(=きちんと定まらないこと)の姿を常に思い(=自覚し)、それでもなお、そうした(人間のような)存在が、日々あらゆる縁(えにし)をいただき、この世(=現象界)を生きていかれることの“奇跡”を解する(理解する)ことです。

だからこそ、人間は、日々の営み(生活)のなかで、何が必要なのか、何をするべきか(あるいは、してはならないのか)を、“実践”という形でおこない、修正し、少しまた少しと向上することができるのです。

その意味では、生きることのすべてが “学び”であり、ここにはけして終着(完成・完了)はありません。

自らが謙虚に在(あ)ること、そしてまた、惑い多き世において、対(つい=反対)の物事さえに誤って選択する、そうした虚(うつ)ろな自らが、神仏の加護を得つつ人生を辿ることのできる感謝と、そして(神仏の御加護を得ているという)勇気を得ていただければと願います。

人間も、そして時代も、大きく移ろいゆくさなかに、われら(=御仏)は、地上にあって良き “重石(おもし)”のごとく、いかなるときも、あなたがたの安定(安心)と癒しになるような、永遠(とわ)の存在でありたい。」

(次回②御霊殿 です。)

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Source: 神々からのメッセージ

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