清盛神社へのお参りののち、再度厳島神社に戻りますと、境内の裏手には弥山(みせん)に続く登山口がございます。
今回は、ロープウェイを併用する「紅葉谷コース」を選び、紅葉谷公園を徒歩で抜けたのち、まず循環式に乗車しました。
眼下には一面の原始林が広がり、吸い込まれそうなくらいです。思った以上に高さを感じ、一人、足がすくんでしまいました。
次の交差式に乗り換えますと、そこからの景色の眺望がさらに良くなり、朝日に輝く瀬戸内海を、乗車中じっくり眺めることができました。
数年前、弥山に登った際は積雪のため、終着駅の「獅子岩駅」に設置された展望台までで引き返しましたが、今回は幸いにも、数日の雨が上がった翌日のよく晴れた日のため、弥山頂上まで行くことにしました。
2つ目のロープウェイで、わたくしに熱心に話しかけてくださる年配の男性があり、その方がさらに下車後も、弥山についてや、瀬戸内海に浮かぶ島々などを、歩きながら説明してくださるので、その博識ぶりに感心し、思わず一緒に頂上まで登らせていただきました。
よくよくお伺いしてみると、なんと、頂上の展望台を朝開錠していらっしゃるボランティアの方だそうで、10名ほどの有志で交替し、当番の日には、展望台の開錠から夕刻の施錠までの一日を、管理人として清掃や不測の事態に備えて頂上で過ごされるとのことでした。
なるほど、どうりでこの界隈をよくご存知なはずです。足腰を登山で鍛えていらっしゃるので登るペースはとても速く、なおかつ、弥山の謂(いわ)れのある場についてを、まるでガイドさんのように詳しく説明してくださいました。
弥山は、頂上に行くほど巨大な岩が多数現れ、太古の昔よりの地形の変化などを思わせ、また、“弥山七大不思議”と言われるとおり、ミステリーを間近に感じる宝庫なのではないでしょうか。
ボランティア中の思わぬアクシデントや、以前こんな珍しいことがあったよ、などと楽しそうにお話してくださるお姿は、本当に気さくで、わたくしもとても嬉しい気持ちになりましたし、このような方々のご尽力あってこそ、安全に、そして気持ちよく登山ができるのだなと心から感謝いたしました。
一人なら迷っていたかもしれない弥山頂上までの道のりを、コースの詳しい解説やトリビアのような楽しい話を交えて一緒に登ってくださったボランティアの方は、“もしかしたら、本当は神様だったのではないかしら?”と思えたくらい、絶妙なタイミングで遭遇し、今回の旅は一層良い思い出となりました。
さて、頂上に到着し、弥山の意識体に合わせた際に降ろされた御言葉をお伝えいたします。
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「あなた(Rinokia)が間近にみる山も、遥かに望む(眺める)海も、こうして太古より変わらず、ここに在ります。
気候の変動の如何(いかん:どうであるか)によって、無論、それらは長い年月をかけ変化します。
ただし、大地に根付く民のその習俗(暮らし)が時代と季節の移ろいによって変わりゆくその一方で、自ずと(しかるべく)配されしこれら(自然の)光景は、幾年(いくとせ)も同じく悠然たる姿を見せ、しかしながら、刻一刻と変化を見せる、その両極(二つの要素)を持ち合わせます。
時代を超え、(過去と現在の)同じ光景を眺めるならば、そこには、確たる(確実な)地球の変化の在りし(在ること)を、手に取るように解する(理解する)でしょう。
それほどに、実のところ、各々(の存在)とは、遥かなる時間を経つつ、元より(本来ならば)じっくりまたじっくりと醸成されゆくものであり、その悠久たる仕組みをあなたは心得ねばなりません。
転じて、今の世(現代)とは、あまりにも“尚早”であり、また、目に見える(端的な)変化を追い求めていく流れ(傾向)にあります。
神々は、地上すべてのものたちに、各々の分(本分:本来果たすべき役割)を定めました。
山なら山の、海なら海の、各々の分(本分)をまっとうすることこそ、地上は微細な引き合い(=エネルギーの影響)によって、どれほど時代を経ても、なお保たれるのです。
一つの山にも、それを成す(=構成する)ものが数え切れぬほどあるでしょう(※ここでは、小石ひとつ、樹木一本などの素材を意味します)。
いずれも、たとえば役どころが(役目が)他へと移ろい(変わり)、あるいは、はたと(ぱったりと)絶え、山総じての流れ(仕組み)に逸脱するがごとく動きを示せば、果たして、この山はどうなるか ーー ーーー
礎(基盤)を失い、やがてはすべてが崩れ去るでしょう。
一つの物事を真に成す(やり遂げる)には、時(時間)を要するのです。
今の世(現代)ならば、殊更(ことさら)に人も、また物事の動きも目まぐるしく、人は変化を追い求めることを余儀なくされるものです。
変化に揉まれつつ、そのなかでこそ、悠然とこの国に聳(そび)えるわれら(山々)のごとく、“不動”なる姿もまた、念じて(心に強く思い描いて)いただきたい。
意気薄弱(意志薄弱)と、自らを貶めて(卑下して)はなりません。
不動たる様相、不屈の姿が、この世において、常に(日常で)見ゆることの、如何に(なんと)少なきか。
ゆえこそ、その(不動たる)一端として、われらは、変わらずこの地に聳(そび)えるのです。
天へ向け木々を伸ばし、大地に根を張るーーー 幾多の生命はわれらに息づき、そのすべてが、“弥山”として、変わらず現わしめる(体現する)。
これが、われらが(われらの)天より授かりし、真っ当なる“分”(=本分)であり、あなたの、その人生の一片(ほんの束の間)のひとときに、美しく刻まれる光景でありたい。」
以上。
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Source: 神々からのメッセージ
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