(祐気取り)埼玉 飯能④【能仁寺(のうにんじ)】

その他

天覧山と多峯主山を下山し、そのまま程近くにございます、曹洞宗のお寺「能仁寺」へお参りいたしました。

能仁寺は、この地の豪族 中山家勝が創建したお寺で、以後、中山家(および黒田家)の菩提寺となりました。

戊辰戦争時には、義彰隊の流れを汲んだ“振武隊”が、当寺に陣営を構えたそうです。幕府軍と新政府軍の激しい争いが、わずか150年ほど前にこの地も巻き込んでいたかと思うと、美しい庭園を拝見しつつ、とても不思議な気持ちがいたします。

能仁寺の御本尊は「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」です。ちょうどお参りした際には、本堂は開いておらず、その御前にてお祈りする形となりました。

わたくし自身、すでに数限りなくお寺へ参拝しておりますが、ときとして本堂が開いていなかったり、あるいは御本尊が御開帳されていなことがございます。

そのお姿を(現実として)拝観できるのは嬉しいことですが、何より、その場に赴き、心静かにお参りできること自体、本当に幸せなひとときです。

今回は、神仏がわたくしたちに願うことについて、毘盧遮那仏よりの御言葉をお伝えいたします。

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「あなたがたは、“苦しまないように”生きることです。

これは、なにも“楽(らく)をせよ”という意味ではなく、この世の日常における、幾千幾万もの自らの“選択”のなかから、“苦しみ”を取らない(=選択しない)ことを、あなたがたは今後一層、心に念じて(心に定めて)いただきたい。

“生老病死”――― 人はこの世に“生(せい)”を受けてより、時(時間)に乗じて肉体の変化を得てまいります。

自らと、そして自らを取り巻く事象(=人や環境)に、数々の変化が現わされるなかで、さらには互いに“交わり合い”(=関わり合い)、各々がたった一度限りの人生を辿ってゆくのです。

無論、肉体のある限り、そして感情のある限り、“苦しまない”ことは実に難き(=難しい)こと。

しかしながら、この世は“多面”(※ここでは、あらゆる要素を含んでいる、という意味です。)であることが、あなたがた(人間)にとっての“救い”となります。

それは果たしてどのような意味かーーーー

たとえ“一つの”物事でも、それは実に多様な側面、そして、“程度”を持ち合わせております。

現に、世の中の向き(=傾向)として、一つの事象について、人々は、あまりにも“苦しい”(否定的・難局)を、自ら選択していると申せざるを得ません。

天(神々)の配したこの世とは、いずれも彩り溢れ(=様々な事象に富み)、そして生きる生命は、如何様(いかよう)にも(この世の事象を)捉えるこのできる、実に精妙なる仕組に成り立ちます。

この精巧なる仕組のなかで、人はなによりも、自らの“財”を大切にしなくてはならぬのです。

ーーーその財とは、ひとえに(=ただただ)“自身”です。

己を軽んじ、心身を痛めつける、ひいてはこの世から失われてしまっては、天が何をもってしても“あなた”という存在をこの世に降ろしたかった、その甲斐(意味)を亡して(無くして)しまうことでしょう。

わたくしの“苦しまないように”生きてほしい、というあながたへの切なる願いとは、実のところ、この天の御意(ぎょい)を思うがゆえです。

今世、稀な(=貴重な)縁を引き合い、巡り巡りて(=転生を繰り返し)晴れて出逢えし者同士が、自ずと(=ごく自然に)、そして限りなき選択(選択肢)のなかから、互いの苦しみの域(領域)を、不断の努力によって(※ここでは積極的な心掛け、あるいは心遣い(思いやり)というくらいの意味です)、“選ばない心意気こそ、真に肝要なのです。

あえて、わたくしがこのように、“苦しみを選ばない心意気”とお伝えしているのか。

それは何より、人間とは尊くもあり、しかしながら、脆い(脆弱な)存在です。

明るき場(明るい未来)を目指すには、強き意志と、ときに勇気さえ必要なこともある。

一方の、自らを貶(おとし)めていく(人生を悲観して生きる)のは、人は誰しも・・・坂に転がる石のごとく、陥りやすいものでもあるでしょう。

そこに潜むは、“〇〇のせい” という、自らの人生の難き(困難)を、他(他人や環境)に求むる(責める)その安易なる心です。

自ら、より一層の思念する(深く考える)ことなく、そして、自らの捉える物事が多様なる側面のうちの、ほんの一片(一つの側面)であることすら放念して。

ゆえこそ、どうかあなたがたよ、これからは、より“深く”、この世を見定めていただきたいのです。

深刻に捉える、ということではなく、むしろ、この世には多くの“救い”と、そして“希望”がそこかしこに在り、あなたの“気づき”を、今か今かと待っているーーー この真実に、あながたはには是非、目を向けていただきたい。

古(いにしえ)よりの、人の戦(いくさ)は言うに及ばず、日常ありふれた生活のなかでの互いの軋轢(あつれき:仲たがい・不和)は、すでに幾度も幾度も、あなたがた一人ひとりの心身を傷めつけているのです。

もはや良いではありませんか(もう良いではありませんか)

ほんの僅かな(些細な)物事からも、あなたがたは互いの誠実なる心に従い、苦しまないことを求める(選択する)ことができる、真に素晴らしき御魂なのです。

足元(=身近なこと)より端を発し、あなたがたの自ら求むる(願う)様相(状態)になるための賢き“選択”が、一つまたひとつと積もりゆき、互いの世界(人生)を円(まる)き光のごとく、まろやかな幸福を導くことができたなら、われら(御仏)にこれ以上の喜びはありません。」

以上。

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Source: 神々からのメッセージ

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