どうも、ヨウ-P(@s_y_prince)ことYO-PRINCEです!
いろんな切り口からカイゴのヒントをお届けしています!
介護はどこまでが介護なのか??
こちらの漫才でも書いていますが、どこまでするのが介護なのかは私もよく分かりません。
ツイッターをしていると、終末期のおじいちゃんが好きなタバコを吸ったり、ペースト食しか食べられなかったおじいちゃんがラーメンを食べたりするツイートに出会います。
そのたびに、介護ってどこまでするのかという疑問が頭の中をぐるぐるぐるぐる…。
死んでもいいんや!
人生の最終章でそんなこと言われたら、誰だって悩みますよね…。
分からなくなってしまいます…。
ですが、それでいいんです!
私は、それでこそ介護だと思っています。
どうすべきかを悩み続けることです。
では、「どこまですべきか」を悩みながら支援した私の実践例をもとに、悩み続けることの大切さをお伝えしていきたいと思います。
- 終末期にうまくいかなかった実践例
- 人生の最終章における「自由」にチームが関わるということ
- 結果ばかりを見ない介護が必要だ!「過程」をクローズアップしたい!
- 多種多様な事業所があれば利用者・職員は「選択できる」と捉える
- まとめ
終末期にうまくいかなかった実践例
私が特養で相談員をしていたときの実践例をお伝えしていきたいと思います。
実践といってもうまくいかなかった失敗事例です。
でも、ちゃんと悩み考え行動した結果なので、後悔はしていない事例です。
失敗事例と書きましたが、失敗ではなかったと自分に言い聞かせている事例なのです。
今から紹介する2つの事例をもとに、介護がどうあるべきかを考えてもらえたらと思います。
実践例1:終末期を病院で迎えたAさん
Aさんは、職員への暴言やセクハラ行為等により、施設では対応の難しい男性の利用者さんでした。
当然のことながら、介護士さんのなかには介助することに日々ストレスを感じていた職員さんも多かったんです。
そんなAさんも、徐々にADLが低下し、病状も悪化し、気弱にもなっていかれるのです。
そして、Aさんは全身浮腫が悪化し、いよいよAさんのなかにも苦しみや怖さが生まれ、入院されることになったのです。
Aさんの入院後、介護現場のなかでは、どこかホッとしたような空気が流れていました。
そして、月日が流れ、Aさんの病状の回復が難しいと入院先から連絡が入ります。
いつ何が起きてもおかしくない状況になられていると…。
終末期でした。
もう施設に帰ってこられることはないだろうと思っていたとき、入院先の看護師さんからこんな連絡が入りました。
Aさんが一度施設に帰りたいと言われているんですが…、無理ですよね?
Aさんの最期は明日かもしれない…という状況下での退院受け入れです。
しかも、Aさんはいわば「嫌われ者」です。
幾度となく続いた職員へのハラスメント行為もあり、何度か退所の話を持ち出した方です。
かなり悩みました。
皆とも相談をしました。
リスクは極めて高いですし、誰もが病院にいたほうがいいと思っていました。
でも、Aさんは施設に1日でいいから帰りたいと言われているのです。
悩んだあげく、「受け入れ」を選択しました。
ただし、施設側が無理と判断したらすぐに救急搬送するという条件付きです。
その返事はAさんの耳に届けられました。
そして、その翌日だったか、病院から連絡が入りました。
Aさんなんですが、今朝亡くなられました…。
私は、言葉がありませんでした。
感情で仕事をしてはいけないと常々自分に言い聞かせてきて、あんなAさんでも「思い」を大切にしなきゃと思っていました。
もちろん、日々向き合う介護士さんの「思い」も大切にしなきゃいけないと思っていました。
その葛藤のなかで出した結論は、意味がないもので終ってしまったのです。
いや…、意味はある!
きっとAさんは施設からの返事を聞いて安心して天国に行かれたはず…。
今でも、そう自分に言い聞かせています。
実践例2:終末期にステーキが食べたかったBさん
Bさんは、認知症のある男性の利用者さんです。
認知症による妄想も多くあり、職員を困らせることも度々の方でした。
そんなBさんも終末期となり、食べることも難しくなってきて、柔らかいものを少し食べられる程度でした。
そんなBさんが、ある日こう言われました。
ステーキが食べたい…。
ステーキなど食べられるはずがありません…。
無理だな…と思っていたそのとき、ある介護士さんがこう言ってきました。
Bさんにステーキを食べてもらおうと思うんですけど、いいですか??
一瞬、戸惑いました…。
とはいえ、今がギリギリ食べられるかどうかの最後のチャンスと感じた私は、ステーキを食べてもらう方向で話を進めることにしました。
もちろん、ステーキを買っても当日になって食べられないことも想定しつつです。
話を進めるうちに、Bさんの状態は悪化していきます…。
残念ながら、ステーキは間に合いませんでした…。
ご遺体を前に、家族とともにステーキを焼くことになりました。
それはそれで、良かったのかなと思える時間でした。
このとき、私はこう思いました。
きっとBさんは天国でステーキを食べておられるはず!
そして何より、ステーキを食べられなかったことで得られたこの時間のおかげで、家族は忘れることのできない時間になったはず!
私はこの2つの事例で、終末期のケアは真剣に悩み続けることこそ意味があると思うようになったのでした。
人生の最終章における「自由」にチームが関わるということ
介護は、その方の「思い」こそが中心であるべきです。
施設に戻りたいと言われたら、戻ってもらうことが一番です。
ステーキを食べたいと言われたら、食べてもらうことが一番です。
では、常に一番を求めるのが介護なのでしょうか?
それは違います!
「思い」を一番としながらも、表出された言葉を鵜呑みにせず本音を推察したり、リスクと天秤にかけながら、関わるチームと本人が共同で判断するのが介護と捉えています。
とはいえ、その時々のそれぞれの介助者の判断にゆだねられることがあるのも介護です。
常に杓子定規に決められたことをしていればいいわけではなく、その時々の利用者さんの調子や思いに合わせながら、そのときしかできない介護をすることもあります。
そんなときのために、介護現場の上司は日頃の部下とのコミュニケーションで「このぐらいならしていいよ」っていう職場の介護の線引きを伝えておくようにしています。
ヨウ-PさんならこのぐらいのことはOK出してくれるだろうな!
介護現場がそんなふうに思えるようにして、できる限り現場の介護が「自由」で楽しくなるようにしておくわけです。
では、どこまで「自由」を追求できるのでしょう??
介護は、仕事の対象が人生の最終章ということもあって、「最期ぐらいは自由にしたい」「最期ぐらいは自由にさせてあげたい」という思想がベースとしてあることが多いようです。
なので、それまでの人生でなら我慢してきたような「自由」を求めることもあるわけです。
病院で治療のためなら我慢できたタバコもラーメンも、治療困難となり「死」を感じるようになった段階で「自由」への意識が強くなるのかもしれません。
じゃあ「自由」にしてもらおうかと割りきったとして、利用者さんに「自由」にしてもらうことができるのでしょうか?
私は、それでも利用者さんの「自由」は制限されると思うのです。
それは介護する側の「思い」もあるからです。
前述のとおり、私は関わるチームと本人が共同で判断するのが介護と思っています。
苦しんでほしくないという「思い」や少しでも長生きしてほしいという「思い」。
そうした周囲の「思い」に触れながら、タバコやラーメンを我慢するのも悪くないものです。
もちろん利用者を支えるチームは、そこであきらめず利用者の「思い」に対してあれやこれやと考えなければいけません。
その結果は、タバコやラーメンが提供されるかもしれないし、叶わぬ「自由」かもしれません。
私は、AさんやBさんの終末期の支援で「自由」を叶えることができませんでした。
でも、「自由」が叶えられた未来以上の成果があったと私は思っています。
大事なのは、「自由」を叶えられたかどうかではなくて、「思い」に対してどれだけ真剣に悩むことができたかだと思うのです。
結果ばかりを見ない介護が必要だ!「過程」をクローズアップしたい!
人間は美談が好きです。
ハッピーエンドが好きです。
ですが、現実はうまくいくことのほうが少ないものです。
でも、この「うまくいかない」ことのなかにも幸せはたくさんあるんですよね。
そのほんの一部が、私の紹介したような実践例です。
決してハッピーエンドではないそれらの実践例は、終末期のタバコや嚥下機能が低下しながらのラーメンに匹敵するぐらいの幸せがあると私は思っています。
そして、何より忘れてはいけないのは、欲求を口にされない、言葉にできない事例が山ほどあるということです。
毎日出された物を食べられるだけ食べて、オムツを替えてもらって、清拭だけしてもらって…、そして安らかに最期を迎えられます。
私たちは、その一つ一つの場面にただただ丁寧に関わるわけです。
ときには、職員は利用者の思いを想像し、快か不快かを手探りで、散歩に出かけたり、好きなものを食べてみてもらおうとすることがあるかもしれません。
散歩に行ったり、好きな物を食べられたときに、その利用者はどんなふうに感じておられるのでしょうか??
利用者の本当の気持ちなど分かる訳もないまま、私たちはそこで達成感を感じてしまうようなことがあるんですよね。
でも実際は、話しかけてあげるだけでいいこともあると思うのです。
何も変化がない介護を続けることって大変なんですけど、それしかできない介護もたくさんあることにも目を向けることができる介護でありたいですよね。
その「過程」には、日常のなかのたくさんの小さな幸せがあるはずなんです。
とにもかくにも、どんな「結果」の介護も、専門職のチームが関わる「過程」こそクローズアップしたいなって思っています。
多種多様な事業所があれば利用者・職員は「選択できる」と捉える
結論、どんな介護もすべて介護なわけで、介護は多種多様であっていいんだとは思います。
一つ一つの事例に対して、「リスク」の視点で慎重に協議を繰り返すチームがあってもいいし、リスクへの理解を家族にしてもらって利用者の「自由」を追求するチームがあってもいいと思います。
制度上クリアしなければいけないことをしっかりとやってさえいれば、介護は多種多様であるべきです。
そこに専門職としての「プライド」があれば、きっといい介護ができるはずです!
そして、私たちは、自分がしたい介護ができる職場を探し、選べばいいんです。
利用者もまた、自分に合った事業所を選ぶことができればいいんです。
職員も利用者もいろんなタイプの人間がいますもんね…。
ラーメンは食べたいけど、詰めるのが怖いからなぁ…。
死んでもいいならラーメンは食べてもらいたい!
ラーメン食べたいとは言われたけど、我慢できる程度みたいやで~。
ラーメン一つとっても、捉え方は様々ですから…。
ラーメン食べたいけど食べるのが怖い方は、悩みに向き合ってくれる事業所を探したほうが幸せです。
死んでもいいからラーメンが食べたい方は、それができる事業所を探したほうが幸せです。
ラーメン食べたいと言いたいことが言えるだけで満足な方は、話を聞いてくれる事業所を探したほうが幸せです。
そして、介護士さんは自分がしたい職場を選んだほうが自分の力を発揮しやすいと思うわけです。
結局は、その事業所がどういった理念で介護をしているかの違いを知り、理念に合わせて職員や利用者が集まっていけばいいのかなと思っています。
ちなみに、私の考えをラーメンの例で例えると、「ラーメンが食べたいという意向に対してチームで協議した結果をもとに判断。ダメならラーメンに相当する満足度が得られるような方法がないかアプローチしていく。」というものです。
これまでの私の経験では、リスクを回避することが望ましいケースが多かったことが、今の私の考えに影響していると思います。
無難な対応ですが、ラーメンをきっかけとして、そこから関わっていく過程で利用者の満足度を高めていけたらいいし、ゴールをその先に描くような支援をしたいと思っています。
そこで、「ラーメンを食べる」こと以上の幸せ探しを模索したいって感じですね!
これは、あくまで私の場合です…。
まぁ、介護はいろいろってことなんだと思います。
結局は、介護の形が「自由」だからこそ、いろんな議論が生まれ、毎度答えが出ないんですよね。
ならば、いっそいろんな形があっていいのかなと思います!
ただ私としては、「結果」よりも、専門職が関わる「過程」こそクローズアップされたらいいなと願っています!
まとめ
終末期にタバコを吸ったり、嚥下障害のある方がラーメンを食べたりすることは、違和感を感じる方が多いと思います。
その一方で、「やりたいことをやる」という価値観で見ると、疑いもなくすばらしい実践と捉える方も多いと思います。
その差は「リスクの捉えよう」にあるんですよね。
怖がってたら何もできないし、怖がらなきゃ何も考えられない。
「死んでもいい」と言われても、「死んでもいい」と割り切れない。
私も幾度となく経験してきた葛藤です。
そんな経験のなかで、私が出した答えの多くは「リスク回避」することで、いったん落ちた満足度をその後の支援で挽回していくということでした。
それは私なりの手法で、必ずしも正解ではないと思っています。
そのとき結果的にはラーメンを食べたほうがいいことも、タバコが吸った方がいいこともあるでしょうから…。
もちろん、リスクアセスメントによって「大丈夫だろう」と判断した場合は、チャレンジすることもありました。
「ご飯を食べたい」と言われてお粥から米飯に変えて、その後誤嚥されて救急搬送されるという結末でしたが…。
リスクゼロの判断なんてないので、介護の仕事をしている以上、きっとそんなことはこれからも起こると思います。
だからこそ、「過程」を丁寧にしておきたいと思っています。
どんな「結果」であっても、「過程」を見るような介護でありたいものですね。
Source: すべての道は介護に通ず【暮らしかるモダンなブログ】
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