武田信玄公(武田家)の菩提寺でもある甲州市塩山の恵林寺には、境内に不動明王坐像を祀る“明王殿”があります。
開山堂を離れてぐるっと左に回れば、比較的大きな「武田不動尊」の碑があるのですぐにわかります。
史実によれば、信玄公が生前、京より仏師を呼び寄せ互いに対面して不動明王坐像を彫らせ、さらにはその坐像の彩色には、信玄公の頭髪を焼いて素材として用いたのだそうです。明王殿には、ほかに不動明王の眷属(けんぞく)の二童子像も祀られております。
明王殿のすぐ後方には信玄公の墓所があり、あたかも、信玄公の御霊を御守りしているかのようです。
不動明王と言えば、今なお多くの人々の心の拠りどころであり、修行霊場も含め、古より続く篤き信仰と、さらには、憤怒(ふんど)の形相に象徴される雄々しい御姿は、いつの時代でも強い威光を放つのでしょう。
わたくしも、これまで全国本当に沢山の“お不動様”を拝見いたしました。
水が激しく流れ落ちる滝つぼの脇にひっそりと祀られる御尊像や、あるいは、有名なお寺に脈々と受け継がれる掛け軸、さらには、伽藍(がらん)のほの暗い空間に光るぎょろっとした瞳の、あたかも生きているかのごとくの躍動ある御姿など、人の救われたい思いは、こうして幾年もの年月を経て、お不動様の憤怒の御姿として形成されていったのでしょう。
わたくしがこの霊能の道を歩むきっかけの一つとして、少なからずお不動様の御教えがあります。いつも本当にすべてを御見通しで、わたくしのかつて、ただ一人の仏道修行にては、折に触れてお不動様よりの厳しき御言葉が降ろされました。
なるほど、お不動様の御言葉は深く、そして仏道を知らぬ者には一層難解でもあり、いただいた御言葉を幾度も反芻(はんすう)して、自分なりに答えを導き出すしかありません。
“いつか、どこかで、きっとこの答えがわかるはず”―――
そう固く信じて、わたくしなりに霊能の道を精進してまいりました。
今のわたくしが在るのも、お不動様のお蔭と感謝し、その思いに恥じぬよう正道を究めるのみです。
この明王殿にても、あいにく内部の拝観ができなかったため、門の前にてお祈りいたしました。
本日は、武田不動尊よりの御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
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「人は、日々自ずと(=当然のことのように)、物(対象物)を見捉える。
だが、真に“見る”とは、いかに難しきか。
人は見るおこないにて、何かしら(の情報)を得、感情を湧き起らせ、あるいは、考えを巡らせるのだ。
しかしながら今や、“見る”ことの、あたかも“単一”なるごとくに、安易に捉えている者は一体どれほど(この世に)在るだろうか。
しかしながら、“見る”とは、その一つの動作(行動)にありながら、どれほどその者の様相(=人となり・人格)を示すものであろう。
ただ一つの、この(見るという)動作は、実のところ、幾つもの“段階”により形成されるべく甚大なる物事である。
目前の現象(対象物)について、そなたは、はたして今まさに自らが“何を”見ているのかーーー 深く思いを致すことができるだろうか。
物事を“見る”とは(※ここでは、物事の内実(真相)を理解することです)、生まれてよりの幾度もの経験にて醸成(育成)されるものでもあり、修養(訓練)を経てこそ(物事を)深く見定め(見極め)られるのだ。
ゆえに、人は、なおたとえどれほど歳月を経てもなお、自ら慢心せず、より深く、より懇ろに(=丁寧に)慮(おもんぱか)れることを求めていかねばならぬ。
その際、いずれの民も、“我いまだ真に会得(=見ることを理解する)の領域に至らず”と、慎ましき念(=謙虚な気持ち)をたずさえねばならぬ。
なおかつ、世を歩むさなかの正しき目(=判断)をもつことにての自らを高みに上げることの、真の意気(=誠実な想い)を天へと宣べるのだ。
『神仏よ。願わくば我に、海より深き“洞察力”と、そして、天より高き“見渡す力”、これに適う真実の“眼”を授けたまえ』と、誠意のままに力強く宣べよ。
深く見極める“眼”はいつしか、心身の向上を(連鎖的に)呼び覚まし、そなたは正しく聴き分ける賢き“耳”を得ることになるだろう。
そして、彩り豊かに対話するべく“感性”(※ここでは、視覚・聴覚以外の“味覚・触覚・嗅覚”(=五感)を指します。)が、この世に配されし幾多の、まさに満点の星のごとくの“奇跡”を自らの宇宙(=内在する魂)に描き、人生を余すことなく味わうべく、その悟りの“道”を開くのである。」
以上。
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Source: 神々からのメッセージ
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