2002年にボストン・グローブ社が
いままでタブーとされてきた聖職者たちの性的虐待の実態を報道してからも
いまだに
世界各地で神父による性的虐待が表面化し続けています。
先月では、
米国ペンシルベニア州の最高裁判所が
同州のカトリック教会内での聖職者たちによる
子供たちへの性的虐待の調査報告書を公表しました。
この報告書には
性的虐待を行っていたと確証された300人以上の神父たちの実名リストも公表されました。
実際に性的虐待の疑いのある聖職者たちは
さらに多くなります。
さらに
カトリック教会による隠蔽工作についても言及しています。
報告文書で明らかにされた被害者たちは
約1千人です。
でも、
実際には証拠が残っていないものも多く
被害者は数千人に上ると推測されています。
被害者の多くは思春期の少年たちで、中には少女も含まれていたそうです。
また今月は
ドイツのカトリック教会において
司祭や修道士ら1670人が性的虐待を行っていた疑惑が判明しています。
被害者のほとんどは少年で、
3677人の被害が報告されています。
やはり実際にはさらに多いと推測されています。
調査した教会の中には
関係書類を破棄したり
書類を改ざんした形跡も発見されたりと
証拠隠滅を図った教会も多いとされ、
さらに
教会側の介入を指摘した犯罪学者が
性的虐待調査担当から外されてしまうなど、
証拠を集められたのは
実際の性的虐待の一部だけといわれています。
バチカンのローマ法王庁の元駐米大使が、
フランシスコ法王が一連の性的虐待疑惑に関する報告を受けとりながらも、
いままで対策を取らなかったことを
告発する書面を公表するなど
現在も大きな問題になっています。
世界中のカトリック聖職者の性的虐待を明るみに出したのは
米国の地元大手新聞社であるボストン・グローブ社の調査報道班「スポットライト」。
彼らが、
記者生命をかけて
米国カトリック教会で多発する児童性的虐待を
組織的に隠蔽してきた実態を暴いた実話を基にした映画
「スポットライト 世紀のスクープ」
があります。
こちらは
米国ボストンでの聖職者の性的虐待の事件の映画化です。
アカデミー賞作品賞と脚本賞を始めとして
世界中の映画祭で123つもの映画賞を受賞しています。
ちょっと重い内容です。
Σ( ̄ロ ̄|||)
2015 SPOTLIGHT FILM, LLC
この映画の中で
調査報道班「スポットライト」の記者たちが、
地道な調査と丹念なインタビューによって
少しずつ
真実へと迫っていく様子が描かれています。
新任の編集長の一言から始まる取材。
最初は単なる小さな事件と思われたものが、
事件の背景に大きな闇が存在することが
次第に明らかになっていきます。
一人の神父の性的虐待事件の取材が、
13人の神父の性的虐待となり、
87人の神父が性的虐待を行っていたことも判明。
しかもこれはボストンだけでの数。
そして驚くことに
聖職者の6%が性的虐待を実施しているという驚愕の事実にまで発展。
闇から闇へ示談によって
葬り去られた事実の証拠を集めなければなりません。
一見手がかりの無い闇を
地道な活動で
すこしづつ光をあてていく作業が続きます。
Youtube
しかも
真実を追求する時に
性的虐待を行った神父たちを糾弾するのではなく、
その問題を闇に葬りつづけた組織の隠ぺい体質を
白日の下に晒すことを目的とした報道姿勢。
罪を憎んで
人を憎まず。
批判はそもそも人に向けるものではなく、
出来事に向けるのが正しい方向です。
人は、
各々の立場と能力によって
大きく行動も思想も変わります。
そして誰にでも間違いはある。
罪を憎んで人を憎まずは、報道の基本だと思います。
人よりも出来事へと問題意識を向けることで
よいよい解決策が出てくるからです。
最近の個人攻撃一色の日本の報道姿勢とは異なります。
個人攻撃から、
理想的な解決策がでてくるとは言えません。
「スポットライト」では、
真実を追求する時に
立ちはだかる大きな壁が
いくつもありました。
ボストンというカトリック信者が多くを占める都市において
とても大きな権力を持つカトリック教会、
さらに
教会を擁護するカトリック信者たち
職務上真実を告げることの出来ない人たち
あまりにも大きなトラウマによって口を閉ざした被害者たち
隠されてしまった証拠・・・。
しかもボストン・グローブ紙の読者の53%が
カトリック信者。
とても数人の新聞記者たちが
太刀打ちできるような事件ではないように思えます。
スポットライト公式サイト
それでも
権力を怖れずに
真実に立ち向かいました。
最終的に
この事実が公になったことにより
ボストンのカトリック教会のみならず、
世界中のカトリック教会での聖職者たちによる
性的虐待が明るみにされ、
数千人にのぼる性的虐待被害者が判明し、
数百人の聖職者が資格を剥奪され、
数千人の聖職者が職務停止処分にされることになりました。
ボストン・グローブ紙は、
カトリック教会の闇に光を射しこみ
問題を解決するための
とても大きな役割を果たしました。
長年聖職者の性的虐待を調査している研究者によると
告発され、発覚したものだけ。
そして、
現在、
いまだに
聖職者による性的虐待は続いています。
それは
本当の問題は、
カトリック教会の隠ぺい体質に在るのではなく
もっと根源的な問題があるからです。
聖職者たちによる性的虐待が多発している背景には
宗教の名の元で行われている
不自然な人間の性エネルギーの抑圧があります。
多くの宗教は、
教義ばかりに目を向けさせる目的で、
その教えに合わない肉体的側面は抑圧してきました。
でも
この地球上で
魂が肉体と共にあるのは、
自らの現実を否定するためでなく経験するためです。
肉体無くして
経験できないことはたくさんあるのです。
それを無視して
精神的、霊的に未熟なうちに、
自然に湧いてくる性欲や感情を否定・抑圧すれば、
結果的に霊的・身体的な波動をゆがめる原因になってしまいます。
性エネルギーの本当の役割を明確に理解している人は
ほとんどいません。
それは一度
性エネルギーを昇華する体験をしないと
理解できないからです。
性エネルギーは、
愛する力を強化し、
創造力を活性化し、
新しいことを始めるための活力を与え、
何かを遂行する原動力となり、
心を熱くし、
エネルギーを活性化させ、
生きる力の喜び、
明るさ、
発芽・成長させ開花させ熟成させる力
そして
直感を引き出す力
などと関連しています。
これらを理解するためには
まずは、
肉体的な性エネルギーの理解から始まります。
この時は、
性エネルギーの方向は下を向いています。
それがほとんどの人の現在の状態です。
最終的には、
性エネルギーを上に向けて昇華することになります。
この時に
初めて性エネルギーが神聖なエネルギーとして理解できます。
でも、
昇華するためには
性エネルギーをさまざまな体験を通してよく理解し、
そして
手放す必要があります。
それを今の宗教的指導者や聖職者は
性欲を手放す代わりに
禁欲により抑圧してしまいました。
中には
性行為を不浄な物とみなしたり、
裸を不潔なものと見なす人たちもいます。
神の子である私たちは皆
性行為を通して
生まれてきているという事実すら否定したいのかもしれません。
でもこれは、
逆に
自分自身の否定にもつながり
肉体的な欲望からの離欲が出来ない状態に
拘束されてしまう大きな原因になってしまうのです。
性欲や物欲を無理に抑えつけた場合、
心の中では歪として残り、
逆に性欲から完全に解放されることは難しくなります。
瞑想で得られる究極の絶頂状態の疑似体験でもあります。
どちらも
愛があり
エゴが無くなります。
大きな違いは、
性行為がエネルギーの流れを下に向けて浪費するのに比べて、
瞑想ではエネルギーの流れを上に向けて循環させていることです。
性行為での刹那的な絶頂よりも
はるかに強力な持続性の絶頂経験をすることが可能です。
瞑想が深まり、
エネルギーの流れが上方へ昇華したら、
開花した花から
花弁が自然に落ちていくように
離欲が起こります。
性エネルギーは
誰もが
いつかは
昇華していかなければならないもの。
と語ったのは、
このような意味も含まれます。
離欲は
植物が実を結ぶ前に、
開花した花の花弁が一枚ずつそっと離れていくように、
世俗的・感覚的快楽への欲求が自然に消えていく現象です。
そこに抑圧はありません。
よりよいものを手に入れると、
より劣ったものを手放しやすくなります。
プラスチックでできたダイヤモンドの玩具のネックレスを大事にしていても
本物のダイヤモンドのネックレスを手に入れたら
玩具は手放すでしょう。
玩具の車を大切に持っていても
本物の車が手に入ったら
玩具の車はもう必要ないでしょう。
それは
肉体的な性エネルギーと
霊的な性エネルギーの関係に似ています。
人も宇宙も
各段階を上がるごとにより神の意識に近づき、
下の段階の時に囚われていた欲は自然と離れていきます。
もし
欲を抑えつけたままの状態で
上の段階に上がろうとしても、
心が囚われて上がることは困難です。
多くの宗教がやってきたことは
性を根底から否定し、抑圧し
神の意識に近づいた錯覚を作ること。
そこを理解しない限り
聖職者の性的倒錯は
根絶できないかもしれません。
私たちが地上に肉体を纏ってやってきた意味を
もう一度よく考えてみる必要があります。
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Source: ひかたま(光の魂たち)
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