霊魂が比較的寄り集まってくる場の一つに、寺院の法堂(はっとう=講堂:僧侶が仏教を講義する建物)がございます。
わたくしが以前参加した禅寺の大本山では、法堂にて早朝のお勤めがございまして、そこでもこうした光景がよく視られました。
大勢の修行僧(=雲水)が読経をしていらっしゃると(※大勢が互いに向かい合って声を張り上げて読経しますので、まるで船が揺れるような響きの高い空間になります)、四方八方から、この禅寺に縁のあったであろう霊が飛んできて、寄り集まったかと思ったら、今度は、熱心にお経を唱えている修行僧の身体に、入ったり出たりを繰り返していました。
“修行僧の方々は、こうした目に見えない部分でも、まさにわが身を修練されていらっしゃるのだな”と、深く感じ入った次第です。
ここで垣間見えた光景は、けして皆同じように霊魂が集まっているのではなく、むしろ修行僧によって、その集まり加減が異なっている、すなわち、霊との親和性と申しましょうか、やはり寄りやすい体質の方とそうではない方が歴然としていることでした。
『鬼滅』の劇場でも、やはりそうした光景ははっきりとしていて、まさに“憑いている”状態の方もあれば、引き連れている状態の方、あるいは、霊とは適度に距離を保つ方など様々で、どちらかというと“影響”という意味での“強制感”があまりないと思いました。
むしろ、そうした明らかな(能動的な)影響を及ぼしきらなくても、それを受け取る側や、さらには商業的な意欲(購買意欲)をはじめとした人の行動が社会全体を巻き込み、『鬼滅』の現象を、日ごと“増幅”させているのではないかと感じたのです。
『鬼滅』に設定された時代背景、あるいは人物設定、さらには様々な意味合いで引き込まれるような描写等で、わたくしたち日本人の心に訴えかける要素を幾重にも配し、また、鬼のような得体の知れない存在が多数登場し、読者の心理的な状況をまるで未知数な面へと押し上げることで、ひいてはまるでドミノのように波及的に社会の大きな現象となることを、もし制作側が見込んで(目論んで)いたならば、もはや相当な“仕掛け人”がいて、鬼も泣くレベルの“神業(かみわざ)”です。
前回⑥でもお伝えした、「“影響力”をどの程度にするか、もっと言えば、どの程度に留めるか(抑えるか)の匙加減が、今の時代には大切」のとおり、『鬼滅』でも、どれほど霊的な操作が最低限で抑えられるかが焦点と感じました。
コミックを読んで、あるいは(映画を)観覧して、明らかに精神をきたしてしまうようなことがあっては、“悪”=排除するべきものに成り下がってしまうからです。
冷静に考えれば、『鬼滅』の設定は、徹底して惨(むご)く、ひたすら切なく、そして、人間をはじめとした生命の性(さが=本性)を炙(あぶ)り出したかのような、目を背けたくなる出来事も多く描かれております。
それでも、いいえ、それすらを乗り越え、登場人物を応援したくなったり、“家族愛”や慈しみを覚え、人間という生命の儚(はかな)さ、それゆえの尊さまでをも強く感じたりするような心(心理)に“昇華”しているのが『鬼滅』の凄さではないでしょうか。
ですが、こうした心理に至るまでには、もしかしたら、相当の痛みや苦しみを感じなくてはならないかもしれません。
それを今や社会現象として、老いも若きも、あるいは、ほんの幼い子どもまでも目(ま)の当たりにする、これを、霊的な作用も少なからず起こり得る物事によって、互いが享受するのは果たして望ましいことなのだろうか、とわたくしは感じずにはいられません。
その意味で、わたくしたちは気づかぬうちに、国民総じて“運命共同体”としてすでに括(くく)られた立場となっているかもかもしれません。
この船が、無事航海を遂げるか、はたまた難破するかーーー
『鬼滅』を通じ、今や社会現象というほどに経済が活況になっておりますが、それは一方では、そのように、いずれにしてもなんらかの大きな潮流が生じることを意味いたします。
そしてまた、『鬼滅』に見る一連の状況は、わたくしたちが今や、“打つ手なし”のごとく物事の歯止めが利かず、“生きるも死ぬも一緒だよ”という、実に末恐ろしいことを示唆しているように思えるのです。
Rinokia
以上。
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Source: 神々からのメッセージ
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