今や、
“当たり前”となったセカンドオピニオン
近年、セカンドオピニオンを受ける患者も
かなり増えたように思う
セカンドオピニオンとは――
患者が納得のいく治療が受けられるよう、
現在の担当医とは別の医療機関の医師に
“第2の意見”を求めることができる権利
医師を替えたり
転院をすることではなく、
あくまでも、
“ほかの医師の意見を聞く”こと
昔は、医者は偉かった
患者は従うしかなかった
今のように、
患者自ら治療を選択することは
ほぼなかった
自分自身の病だ、
選べるようになったのはいいことである
が、
乳がんになったばかりでは知識もなく、
選択するにはあまりにも過酷だった
日本でセカンドオピニオンの
対応をするようになったのは
1990年代後半
(ちなみにアメリカは1980年代)
今でこそ患者から、
「セカンドオピニオン」
という言葉を出せるようになったが、
それでも10年ほど前までは、
担当医にあからさまに嫌な顔をされたり、
データを出してくれない医者もいたようだ
私の場合、
○特殊ながん経歴
・がんを5年放置したこと
・細胞診ではなく、
いきなり外科的生検をされたこと
(それにより、
がんの広がりがわからなくなった)
○稀ながん細胞
○複数のしこり
などから、
乳房切除法や腋窩リンパ節郭清について
主治医の方から、
「“セカンドオピニオン”という方法もありますよ」
と、言ってくれたほどだ
結果的に、
私はセカンドオピニオンは受けなかった
理由は5つ
○このあたりに、
ほかにがん治療をしている病院がないこと
○5年も放置していたため、
数日かけて遠隔地の病院へ行くだけの時間が
私には残されていないと思ったこと
○標準治療を受けるのであれば、
どの医師の意見を聞いても
同じだということ
○経済的理由
(遠隔地の病院へ行くための交通費や宿泊代、
セカンドオピニオンの費用など)
○“稀ながん細胞”ということで、
主治医が外科部長に
相談してくれていたこと
↑
ここですでに、
セカンドオピニオンを受けたようなもの
セカンドオピニオンを受けなかったのは、
この理由が一番大きかったかもしれない
母は私より2週間早く、
甲状腺がんの告知*を受けていた
5年後、再発(遠隔転移)**し、
さらに2年後、治療法がなくなる
死を待つだけとなった
*) 『宣告』ではなく、
今はがんは『告知』の時代
**) “再発”は、“ステージ4”ではない
“ステージ(病期)”は
がん発覚時に確定するもので、
(病理検査で変更する場合あり)
治療法を決めたり生存率に関わるもの
治療法が亡くなったとき、
周囲は様々なアドバイスをくれる
「こんな地方じゃなくて、
都会の大きな病院に行った方がいいんじゃない?」
――いや、もうそんな段階じゃないのだ
「この街に、甲状腺に詳しい先生がいる」
そう教えてくれた人もいる
漢方を売っている薬局の人だ
が、教えてくれた病院は“循環器”
がん治療をしているわけではない
この街にはがん治療をしている病院は、
母と私がかかっている病院しかない
母は主治医には何も言わず、
教えられた循環器の医師のところへ
行ったそうだ
(あとになって聞かされた話)
が、その日、たまたまその先生は不在だった
看護師長さんが母の話を聞いてくれたあと、
「今かかっている病院には
“緩和ケア”というのもあるし、
そのまま今の病院にいた方が
いいと思いますよ」
そう言ってくれたようだった
その当時、私はすでに実家を出ていた
一緒に住んでいたら、確実に止めていた
それは、セカンドオピニオンにもならない、
母の暴走であった
それほど、
「生きたい」という思いが
強かったのだと思う
それほど、
「ほかに治療法がないのか」と、
主治医への苛立ちが募っていたのだと思う
(当時、主治医が変わったばかりで、
新しい主治医に
母と父は不信感を抱いていた)
「まだ生きたい」という母の気持ち
そして、治療法を模索する思い...
それがわかりすぎるほどわかるだけに、
その時の母の姿を想像すると
切なく、哀しい
今日の午後、観られたきれいな空
さ、また新しいあしたが来る――
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Source: りかこの乳がん体験記
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