岐阜県 関ケ原古戦場②(戦国武将の回顧録(1))

その他

よりの続きです。)

徳川家康が関ケ原の戦いの最後に構えたという陣地の傍(そば)で祈りを捧げた際、わたくしの目前に現れた光景は、東軍が勝利に沸き立つ様ではなく、数々の激しい戦が終わったまさに荒れ果てた関ケ原の姿でした。

ここで、戦に勝どきをあげた武将の一人の御霊が現われ、わたくしとともにこの荒れた光景を見渡しつつ、在りし日を静かに語ってくださいました。

言葉にするにも辛い表現も含まれております。どうかご了承くださいませ。

Rinokia

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「此度(こたび)の戦を交え、当地(=関ケ原)には、幾千、幾万もの屍(しかばね)が、ご覧のように互いに折り重なるかのごとく、うず高く積み上がりました。

その様は、まるでこの世(=現象界)とは思えぬほどで、それこそ、幾度も刃(やいば)を切り込まれ、あるいは銃砲に打ち抜かれ、敵味方はすでに判別はつきませぬ。

力尽き、無惨にも死した身(=屍)が、そこかしこに見える様は、かろうじて生き残りし者とても、すでに勝敗の区別さえも思えぬような有り様です。

遠く遥か彼方(かなた)にまで絶えぬこの(悲惨な)光景を、(当時)目にしたわたくしどもの心はいかばかりか、あなた様はお分かりになりますか?

戦に敗れた者は無論のこと、わが軍(=東軍)にわれこそはと加勢し、(戦に)臨みし者もまた、もはや数え切れぬほどにその尊き命を遂げました。

わが軍が勝ちてなお、この戦(=関ケ原の合戦)の意味を、わたくしは心深く省みております。

なぜこれほどまでに両軍多大なる犠牲を出し、激しき交戦を経てまで成したかったものは一体何だったのか ーーーー

当時は、同じ(日本人という)民とても、諸国(※それぞれの戦国武将が治めた領地)は分立し、それらが緻密(ちみつ)なる均衡を保っておりました。

そして、互いにその存亡を賭け、じりじりと(戦の)時を待つ状態だったのです。

もはや(今では)考えられぬかもしれませぬが、それぞれの慣習、規律を保持する国が、(日本という一つの国に)互いに譲らず分立するという具合です。

無論、わが(領土の)民を守ること、家(家系)の存続などは、何をおいても肝要(=最重要)で、それらを互いの領主が己の威信をかけ、これまでも長らくの争いは続いておりました。

自国(自分の領土)を存続させるという大義(=重要な意義)は据(す)えつつも、しかしながらその一方で、まさに乱立するかのごとく、依然、諸国が足並みを揃えぬという実情への危機感が、わたくしども(戦国武将)はいずれも胸をかすめていたのもまた事実です。

全国を統べる(すべる=統一する)こと、それは、実に容易ならざる事態です。

そうした流れに反意(=反対)を述べる者もあるでしょう。

この流れにともない、既存の利得が損なわれたり、力量(=力関係)が揺らぐのであれば、当然のことながら反意は膨れ上がり、益々諸国の足並みは揃うことはありませぬ。

それでも、此度の戦こそは、(日本の)後世に遺(のこ)る事実(=歴史)として深く刻まれました。

(お家断絶等の)あらゆる危険を孕(はら)み、それでもその瞬間(とき)、互いに決死の戦を交えることで、この国の在り方を、わたくしどもは大きく変えてゆかねばならなかったのです。

(次回③ へ続きます。)

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Source: 神々からのメッセージ

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