神の詩 第三章第三節 3

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神の詩 第三章第三節 3

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スリー・クリシュナ
「アルジュナ(穢れなき者)よ、この世には二つの道があると、私は初めに述べた。思索を好む者には知識の道(ジュニャーナ・ヨーガ)があり、実践を好む者には行動の道(カルマ・ヨーガ)がある。(三)」

続きです。

出家をしないで
社会で活動しながら
霊性を高めていく指針は、
仏教の中にも記されています。

「維摩経」
というちょっと特殊な仏典があります。

ほとんどの仏教の経典では、
釈迦大師の教えが基本になっていますが、
「維摩経」では、
ガンジス川中流域の都市ヴァイシャーリーに住む維摩という老人が主となって説法しています。

維摩は、
悟りを開くためには出家するという時代に、
在家者としての道を選び、
見本となった人です。

維摩という人は、
大海のように器が大きく、
慈悲深く、
何事にも無執着で、
煩悩に振り回されることなく、
戒律を守り、
多くの人に慕われていた
ことが記述されています。

維摩の生き方は、
社会で活動する人の指針となるものとして
示されています。

釈迦大師の弟子や菩薩たちは
維摩の家へ赴き、
教えを受けます。

そして
釈迦大師の元へ帰ってきた時、
大師は次のように語ったとされています。

「仏道にはさまざまな道がある。人々を香りで導くこともあれば、光で導くこともある。仏の道は多様で限りなく、すべての人に開かれているのだ。」

この経典「維摩経」によって、
在家者でも出家者と同じように悟りを開く道が示されました。

実は
維摩は、
この世界で修業を積んだのではないのですが、
社会の中で
人々に霊性進化の道を、
身を持って示していたのです。

当時、
出家しないと解脱できない
と言う固定観念を取り払うことでした。

余談になりますが、
この維摩の娘に関する経典「月上女経」は、
「竹取物語」の原点
といわれています。

神や聖者たちは、
人に道を示し導くことはあっても、
どの道を歩むのか指定することは
絶対にありません。

それを決定するのは
各自の自由意思に委ねられています。

いずれの道も
直接的な神性を求める体験を通して、
実在の中には心が存在しない
ということを学ぶことにあります。

神性が、
人間性そのものである
ことを知るために学びます。

ここでは原典では、
クリシュナは、
アルジュナのことを
罪なき者、穢れなき者
と呼んでいます。

これは
クリシュナが提示した道を進みやすい状態を示しています。

穢れのあるままの状態では、
道を進む速度は遅く、
穢れのない状態では
道を進む速度は速くなります。

人の本来の意識の流れは、
真我へと向かうものですが、
その自然な流れに抵抗しているのは
低次の自己だけです。

次は

「行動を控えても行動を超越することはできないし、単なる放棄によって完成に達することもない。(四)」

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Source: ひかたま(光の魂たち)

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