神の詩 第三章十五節
物質的な力が最も強くなり、
人の清浄さと共に、聡明さも低下してしまいます。
この時期にいる人々は、
自我が強くなり、
物質的なものに惹かれ、
争いも増え、
人生の本当の目的である神への回帰の道も忘れてしまいます。
膨大なヴェーダの口伝を文字にしたのは、
ドヴァーパラ・ユガの終わり、
カリ・ユガが始まる時期になります。
聖ヴィヤーサは、
カリ・ユガにあって
自我と欲望に囚われている人であっても、
ヴェーダが学べるよう、
文字にして、
さらに
ヴェーダを分割して神の叡智を残しました。
「ミーマーンサー・スートラ」のジャイミニ大師も、
膨大なヴェーダのすべての語が叡智であり、
たった一文字でも
余分な語は存在しないと断言しています。
ヨーガ哲学のパタンジャリ大師も、
ヴァイシェーシカ哲学のカナーダ大師も、
原子論のヴァイシェーシカ大師も
ニヤーヤ哲学のガウタマ大師も、
聖人たちは皆、
ヴェーダを最も信頼すべき聖典であるとしています。
私たちが読んでいる「バガヴァッド・ギーター」も同じです。
すべてが叡智であり、
無駄な語が一切ありません。
そこには、
まだ読み手が知らない叡智が詰まっていて、
一つの文字、
一つの単語、
一つの節の中に
新たな智慧を生み出せる構造になっています。
それは、
日本の国歌「君が代」と同じことです。
正しく深く読み解いていくには、
言葉を超えた領域に入っていく必要があります。
ここで説かれている内容が
深遠な真理の入り口になるはずです。
「バガヴァッド・ギーター」は、
ヴェーダの奥義であるウパニシャッドの精髄と同じものであることから、
「ギートーパニシャッド」
とも呼ばれて、
尊重されています。
私たちは
まず
この文章の中に説かれているいくつかのヴェーダについて、
何を示しているのか
よく内観してみる必要があります。
ヴェーダの定義を変えることによって、
何段階にも解釈することが可能だからです。
さまざまな解釈の共通点は、
制約された魂にとって
ヴェーダを指針とすることは、
至高の境地へと導く道標となることです。
しっかりと取り入れることで
自然とヴェーダ(神の叡智)が指針となることを示しています。
あらゆる存在の中に見られます。
それは、
霊性の進化を妨害するような存在の中にも
隠されています。
でも、
クリシュナがここで
「いつも祭祀の中にある」
と言いました。
それは
生きた魚(祭祀)は水に入れると美しく泳ぎますが、
死んだ魚は水の中に入れても泳ぎません。
どちらにも神聖なるものが宿っていますが、
違いがあります。
クリシュナがそのように語ったのは、
神聖な意識は祭祀を行う意識を持って行動することで育っていくものだからです。
次は
皆さん
追いついていないのか
本があるからブログは読まないのか
ついてくる人が一気に減りました。
一旦
休憩いたしましょう。
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Source: ひかたま(光の魂たち)
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