武蔵御嶽(むさしみたけ)神社の御祭神は、櫛麻智命(くしまちのみこと)・大己貴命(おほなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・廣國押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)の五柱です。このうち、廣國押武金日命は、神仏習合の概念で、“蔵王権現”と同一の神格とされております。
わたくしも、この神社にお参りするきっかけとして、蔵王権現に由縁のあることを知ったからです。
とくに鎌倉時代には「金峰山御嶽蔵王権現(きんぷせんみたけざおうごんげん)」として、関東近圏の武将たちからも篤く信仰されたとのことです。
現在の本殿(明治11年(1878年)造営/神明造)もまた、やはり雰囲気としては、華やかさというよりむしろ威風堂々としており、雄々しい印象がございます。
ちなみに、幣殿・拝殿は本殿よりも歴史が古く、1700年(元禄13年)に、5代将軍 徳川綱吉の命で、江戸時代には“西の護り”として改築されたのだそうです。
参拝当日、本殿に辿り着く前には、道中沢山の“講”の石碑がありました。神主さん曰く、今に続く“社寺詣で”の名残とのことでした。
本殿では、神に、これら山岳信仰からの山に登ることの意義についてもお伺いいたしました。
“このお社に至るまでには本当に沢山の講があるのですね。山岳信仰の凄さや先人たちの気迫を感じます。”というRinokiaの感想の返答が以下です。
どうぞご一読いただけますと幸いに存じます。
Rinokia
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「真に心より望まねば、幸福は勝ち得ない(=獲得できない)。
世の人々が、幸福を望むとして様々な行動(言動)を表すが、しかしながら、真実(=実際には)幸福となることを望んでいないのではなかろうか。
なぜ、われら(神々)がこのような言葉を発するか。
それは、口では(幸せを)唱えながら、その実(実際には)、真に幸福になろうとはしない(=そのようにしかるべく行動しない)者が、いかに多いかを、年月を追うごとに(=時代を経るごとに)つくづく感じさせるがゆえである。
自らの心に願うことと、仮に裏腹(=そぐわないこと)をおこなえば、当然のことながら(願うこと・求めること)は得られぬだろう。
そなた(Rinokia)が今まさにおこないし、“山に登る” という行為 ーーー
この、ただ一つの物事を見るにつけても、山頂へ向かうその足先(=行く先)が異なれば、(目指す)山にはけして登れはしない。
そしてまた、山頂へは、“誰に頼ることのない”、まさに自らの足(=歩み)を一つ、また一つとひたすらに進めていくのみであろう。
これが、一つの道(教義)を信仰するという意味である。
想い(信念)と、そして行動とーーー
頂上(=目指す物事)へと向け、真に志(=意志)のある者のみが、やがては臨(のぞ)むことのできる、清々しき“光景”(=悟り)がある。
山に登ることは、己の真実の想い(願い)と、それがまた他でもない自らの行動(歩み)こそにて成し得るものである。
これを、時代は変わりゆくさなかにあっても、なお変わらずこの(武蔵御嶽神社の)聖域は、(“天空の神社”の名そのままに)天に近き場に在りて、迷いの世に生きる人々に示しゆく(示し続ける)であろう。」
(次回②へ続きます。)
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Source: 神々からのメッセージ
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