戦国時代、甲斐の国(現:山梨県)を治めた武田信玄公の墓所は、甲府市の「武田神社」のすぐ近くにございます。
先日の神社参拝の折、少し足を延ばして信玄公の墓所にも訪れました。こちらは、信玄公のご遺体を火葬した場所とされ、“火葬塚”とも呼ばれております。
信玄公は、自らが亡くなった後、3年間秘密するよう遺言し、この遺言は、武田家の家督を継いだ勝頼公によって忠実に守られたそうです。
敵に攻め込まれないためのけん制や、民に混乱を起こさせないための信玄公の最期の計らいです。
墓所にて、信玄公の御霊に、当時の心構えなどを伺いました。現代にも通じる大切なメッセージです。
どうぞご一読いただけますと幸いに存じます。
Rinokia
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「この地(甲斐)は、江戸に近いとはいえ、当地を取り巻く(自然の)環境は厳しく、身近に接する(=やりとりする)ことはできない。
そしてまた、横隣り(=西側)には信濃国があり、こうした国々の“狭間(はざま)”にある地、それが甲斐であろう。
こうした狭間の、ある種、閉鎖的な地であるからには、地の利ばかりとはいかず、むしろいつ何どき、他国(隣国)に服従せしめられるか、国の体制が脆弱(ぜいじゃく)となるか、こうした不安が常にわれ(=信玄公)の頭をよぎっていた。
この地を外敵より守り、さらには、以後大きな栄えを成す(=発展する)には、はたして“何”が要(かなめ)となるか、それを、この地の特性とともにひたすらに考え抜いた。
貴重な資源を発掘し、それを巧みに(=うまく)売り買いさせることも一案だろう。
なおかつ、土壌の特質をふまえ、気候に順応することで、農作物を少しでも効率的に栽培し収穫することも欠かせない。
だが、これら資源や農作物をはじめとした、この地の利(良さ)を生かすのが、紛れもなく“人”であることを、われは若かりし時より強く思っていた。
“宝の持ち腐れ”ではないが、目先の利益を優先し、実際には真に欠かせぬ存在(=人)の特性を見い出さぬことが、何よりも手痛い末路をもたらす。
宝を求め、しかしながらもっとも身近なる宝を蔑(ないがし)ろにする傾向は、かつて(=戦国時代)も、そして今(=現代)も変わらぬやもしれぬ。
宝は、さらに大きな宝を呼ぶ。
良き民は、良き民を産み、国の弥栄(いやさか)を願い、天塩にかけ育(はぐく)んでまいるだろう。
その意味では、人育てとは、実に長き時間を要するものでもある。
しかしながら、何よりも強固に、そして誰よりも国の良き担い手として、自らのその力を投じていくだろう。
ゆえに、われは己の政(まつりごと)を、ひとえに “人づくり”と決めた。
民が無くば、国などあろうはずもない。
国の安泰は、民の強固なる結束と、そして絶大なる信頼の上に成る。
逆に申せば、民の結束と信頼なき集団は、すでに国とも呼べまい。
こうした教訓は、国ならずも、家(=家族)、地(=地域・社会)・・・あらゆる(集団の)場にて当てはまるだろう。
かつて(戦国時代)混乱(=戦乱)があったように、今、世は大きく乱れている。
この国(=日本)は “糧”を失い、まるで彷徨(さまよ)い歩く風来の民のごとく。
この国の“糧”とは一体、何か ーーー
先祖たちが皆、その命を投じて守り、紡ぎ出してきたもの、それが、われら(日本人という)“民”であろう。
国づくりとは、まさに“人づくり”。
これを国の“訓戒”(=教え諭し戒めること)とし、宝の民よ、今こそ“一丸”となって己の役どころ(=役目)に励んでまいれ。」
以上
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Source: 神々からのメッセージ
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