鳩森八幡神社の本殿後方の竹林に、静かに佇(たたず)むのが末社の「神明社」です。
元々は“太神宮”として、港区元赤坂の権田原(ごんだわら)に祀られていたそうですが、明治になってのちに、当社に遷座されたとのことでした。
小さめのお社で、しかも境内が樹木で溢れているため、うっかりすると見落としてしまうかもしれません。
こちらでは天照大神の一柱を御祭神としておりまして、今回は、人の一生について、神の御言葉をいただきました。
各地で11月並みの寒さになっているようです。
皆様におかれましては、どうぞ暖かくしてお過ごしくださいませ。
Rinokia
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「この社(=鳩森八幡神社)は、人生折々の歩みを支えゆくために在(あ)ります(※ここでは、生まれてからあの世へ帰るまでの一連の過程を指します)。
人がこの世に産み落とされてのち、日ごと(家族などの)周囲の愛の下(もと)にて、少しまた少しとできることが増えてまいります。
“できるようになること”の喜びは、それこそひとしおでありましょう。
ところが、いつしか歳月を経る(=年を取る)うちに、肉体は衰退し、徐々に“できなくなった”ことを殊更(ことさら=とりわけ)感じるようになります。
衰えには何人(なんぴと)も、けして逆らうことは叶いません。
その現実は“如実”(=事実そのまま)でもあり、これに晒(さら)されるや、益々不安や諦念(ていねん=諦めの気持ち)に駆り立てられます。
それでも、人がこの世にて歳月を経ることは、たとえ実感は得られずとも、“できるようになった”ことも少なからず生じているのではないでしょうか。
“老いてなお”、いいえ、“老いてこそ”という言葉が、もっとも適しております。
では、“老いてこそ”できるようになることは、一体どのような物事でしょうか。
それは、泰然とした(=ゆったりと構えた)物事の見方かもしれません。
昼夜忙(せわ)しき壮年の期を越え、今や、物事を鷹揚(おうよう)に捉(とら)える、その緩やかさかもしれません。
さらには、ほんの些細なことさえも心躍らす(=喜ぶ・感動する)ことのでき、そして人生に一層の感謝の念をもつ純朴さかもしれません。
老年(老年期)を迎え、肉体としてできぬ数が増すその一方で、人間というものは、さらに“できるようになる”ものなのです。
ですから、年齢を理由に、あるいは環境(立場・状況)を言い訳として、自らを制限する(人生を諦める)ことは、いかに無意味であることがお分かりになるでしょう。
人生が続く限り、誰しも必ずや“伸長”いたします。
ですからこの伸長を念じ、日々を一層楽しみつつ、人との縁(えにし:出逢い・関わり)をも大いに得てまいるのです。
あなたがたはけして(年を経て)“できなくなった”のではなく、なんと深みある、益々麗しき“輝き”を放つようになったかと、われらは(天より)このように見ております。
“一度限りの人生をめいっぱい慈(いつく)しむこと”ーーー
人生はこの言葉に集約されます。
そしてわれらは、あなたがたのこの輝き溢れる姿こそを、(あなたがたが)生まれてより天へと召されるその日まで、いつでも愛(め)でていたいのです。」
(次回③冨士塚 へ続きます。)
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Source: 神々からのメッセージ
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