(【Rinokiaのひとり言】川越 西雲寺 からの続きです。)
浄土宗 西雲寺(さいうんじ)の御本尊は、阿弥陀如来です。
今、わたくしたちに必要な心構えを教えていただきました。
どうぞご一読いただけますと幸いに存じます。
Rinokia
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「人は欲に歓喜し、そして欲に苦渋する生きものです。
それであるなら、この“欲”自体を無くせば良いーーー そのように考え、長らく先人たちはおのれの欲からの解脱(げだつ)を目指してまいりました。
しかしながら、欲を無くすことはけして簡単ではありませんし、むしろ、欲無き姿などは、たとえ聖人と呼ばれる者とても容易には叶わぬのではないでしょうか。
欲を無くこと、自分を顧みずいわば“利他”の境地に至るのは、頭では分かっていても、いざ実践するのは実に難しく、かえって欲を無くそうと試みることで、心身の苦しみは増える一方です。
それならば、こう考えてみてはいかがでしょうか?
自身の生き様は、いずれにしても“すべて”、地球にけして消えぬ足跡(=軌跡)として刻まれます。
ですから、自らの生きた証として、一日ごと、良き姿も、そして悪(あ)しき姿さえも克明に、以後の世に存続する、いわば各々には、自分なりの(生き様の)刻み方が“任されている”ということを。
欲も含め、煩悩、そして生老病死は、人間という生命からけして消えることはありません。
むしろ、日ごと刻まれていく自らの生き様、人生の歩みが地球に刻まれることによって、それらを、もはや会うことの叶わぬ後世の者たち(=未来の人々)にいずれかの形で示され、順繰りと引き継がれることになります。
この、生きることの“重み”(=意義・貴重さ)こそを、われら(仏たち)は、あなたがたに考えていただきたいのです。
後世の人々に伝わる、“地球にかつて生きた先人たち姿”とは、まぎれもなく、あなたのこの世に示す今の姿でありましょう。
それであるなら、あなたはどのような姿をこの地上に刻みたいか、そして、以後の人類の未来に、はたしてどのようなものこそが引き継がれていくべきか ーーーー
これらを心に留める(=意識する)ことで、あなたのあるべき姿が自ずと見えてくるでしょう。
こうして、けして一人ごとではない、連綿とした人類の歩みが絶えることなく続けられ、現在に至っているのです。
欲を無くす、少しでも自らを滅することに奔走するのではなく、欲をもつ人間という生命が、様々な壁、困難を乗り越え、“共に生きる”うえで必要な物事・姿(振る舞い)こそを、あなたがたは今、現にその主体者として、天より一心に委ねられていることを、何より心に解して(=理解して)いただけるよう切に願います。」
(次回は 日限三体地蔵尊 です。)
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