小野照崎神社のもう一つの境内社には、「三峯神社」と「御嶽神社」が合祀されております。
三峯神社は、埼玉県の秩父多摩甲斐国立公園内標高約1100mに鎮座し、秩父神社・宝登山(ほどさん)神社とともに “秩父三社”と呼ばれます。
そして、御嶽神社は以前の記事も書いたとおり山岳信仰のひとつで、全国にも同じ名が多数存在いたします。
どちらもご神威凄まじく、わたくしも身を引き締めてお伺いする神社です。ですので、当日こちらで思わずお参りできたのは非常にありがたい幸運でした。
今回も背中を押してくださるような力強い御言葉です。どうぞご一読いただけますと幸いに存じます。
Rinokia
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「毎年、繰り返す日常の平穏(無難)を願うのも良い。
しかるに、真実(=実際には)、日常恙なく(つつがなく:無事に)過ごせることのいかに難き(=難しい)か、殊(こと)に(=とりわけ)昨今(近年)においては、皆が心底感じたのではないだろうか。
元より人生とは、紆余曲折(の道のり)でもある。
そして歳を負うごとに節目(節目)を幾度も迎え、さらには(そのさなかに)まさに “(人生の)岐路に立つ”ことさえある。
ここにおいては、平穏に生きる、それを求める感覚より、むしろ繰り返し迫りくる有事(苦難)に対し、心身を満たし(充実させ)乗り越える、これこそ(見た目は困難であっても)内実、当人はまさしく悠然たる姿なのではないだろうか。
ところで、神社という場へは一体何を祈り(願い)に参るのだろうか。
時代はもはや、現象という意味での無事なる(=何事も無い)ことはまさしく皆無に等しく、その意味では、“有事”のなかの自らの不動の様、恐れなく、混乱なく、めくるめく世界の動向と、さらには自らの道程(人生)の荒波さえも越えゆく真の“泰平(の精神・肉体)”を(自身が)持たねばならぬ。
荒波を凌(しの)ぐか、あるいは埋没するか、あらゆる物事は自らに“帰結”する(※この場合には、“自己責任”と言う意味です)。
けして誰しも代われぬ(各々の)命ゆえ、いつか天へ召されるその日まで、生きながらえることが本分(=果たすべきこと)である。
ゆえに、社(やしろ=神社)へは、自らが、変局の世でさえ平穏に乗り越えるほどの賢き知恵と勇気を得る、その導き(=契機)として(神前に)参るが良い。
そして何より、命を限りなく生かす(=この世に生かしきる)決意をもつ者こそ、一層の試練が舞い降り、新たなる“展望”が開かれるであろう。」
以上。
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Source: 神々からのメッセージ
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